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2017-05-02

気楽に出来るということはいいことだ

さて、機能の日記でなるべく毎日何か書きたいと書いておきながら何を書こうか迷ってぼーっとツイッターのタイムラインを眺めていたら、本屋の写真が目に入り、『ベッドルームで群論を』を見かけたので、そう言えばこれ読みたいなぁと思って読んでない本の一つだとか思いながら日記を書き始めた。

まあ、読んでないので、ベッドルームで群論をはさておき、なんとなく気楽な感じがして良いタイトルだ。僕は、結局、学問のプロフェッショナルになれなかった、少なくとも現状はそうではないので、本当にどうしてもその道で食っていこうとしている人については何も言えないが、勉強とか学問とか、広く知識を得るということはもっと気楽なものであればいいと思っている。

平易というより日常的な言葉での「遊び」であればいいと思っている。でも、どうにもそうでないというきらいが世の中にはあるようで、なんで、そこを区別すんのかなと思う。

例えば、僕が数学好きであったり、論理的にものを分解して分析しようとしたり、英語で書かれたものを読んだり、少し違うところで言えばコーディングやらコンピュータの知識を仕入れたりしているのは、僕の友人にとってはとても奇妙なことのようだというのが、最近分かってきた。まあ、友人連中は友人なので、奇妙だと思う程度だが、おそらくそういうことを忌み嫌う人たちや、拒否感を示す人もいるだろうと思っている。

まあ、僕の観測が、実際の何かとどれくらい離れているかはさておき、休日に釣りやバーベキューや海やショッピングやらのレジャーをするということに対しては肯定的で、読書やお家カフェなんかのインドア趣味までならわかってもらえるも、今日は多様体のお勉強をするよとか、Lispってプログラミング言語で云々とか、何が楽しいのって人いるんだろうなぁと思う。今まで僕が、たまたま、そういう人を不幸にも見かけただけかもしれないけれど。

で、よくよく考えてみると、それらの境界っていったい何なんだろうかと気になる。いわゆる学者的存在がいるかどうかということかと思ったが、レジャーにしろ何にしろおおよそのことにその道の専門家がいるという点は同じだ。消費行動が経済を回すから主となる部分が素人と玄人で逆転するから違うという意見もあるかもしれない。でも、だったらプロスポーツ選手じゃないのにスポーツするのって疑問が浮かぶので、たぶん違うだろう。

どれほど考えていっても、境界が見えてこないのだけれど、30年弱自分の周りを観察した限りだけど、世の人のなんとなくの合意の中には何故か境界線があるような気がする。

結論としては、だからなんなんだという話ではある。

僕の趣味を受け入れられない人に受け入れてもらうつもりも無い。それに、僕が普段やらないことを趣味とする人たちのことを笑ったりはしないものの、僕自身がそういうことに手を出すかと聞かれたら、人生は悲しいけど有限なんだと答えるだろうから。

とりあえず、好きなことをして生きるというのは大事なことだと思っている。無論、人に迷惑をかけるとか法を犯すとかいうことは別問題である。この文脈、人に迷惑を書けない限り好きにしていいと言っているように取られそうで嫌だけど、一応書いておく。

自分自身どれくらい好きなことをして生きているのかってすごく難しいと思う。これは今私がしたいこと何だろうかとか、人からどう思われたいとか思っていないだろうかとか考える。自然にやることだけをやる。結局、そこに立てないから、いつまでも私はダメなんだなと思う。

逆に言うと、自然に出来る範囲のことだけやった自分を肯定してやらんとなぁと。

まあ、そんなこんなで、まとまりないけど、このあたりで。